偏食の王子様 1話

其れはある日突然私の身に降りかかった。「もういい!」「えっ」「もううんざりだ、ついて行けねぇよ」「…其れって」「おまえとは別れるって事!──じゃあな」「! ちょ…ま、待って──」私の呼び止める声も聞かずに彼は足早に去って行った。「…」(…なんで…こんな事になったの?)私は…彼に良かれと思って…ずっと…ずっと…「…嘘…でしょう?」行楽客で賑わう公園のベンチにて、私は力無く其の場に座り込んだのだった──私は井上 来未(...

偏食の王子様 2話

彼の事以外何も考えられずしばらく公園のベンチでボーッと座り込んでいた私は、すっかり陽が暮れている事にようやく気が付いた。「あ…か、帰らなくっちゃ…」私はのっそり立ち上がりヨタヨタと歩き出した。行きは彼の車で来たこの緑地公園だったけれど、其の彼はもういないのだ。本当なら今夜は彼の家にお泊りの予定だった。少し大きめのバッグにお泊りグッズも入っている。だけど今の私には其れはただの重たい荷物にしかなっていな...

偏食の王子様 3話

彼と別れたあの日以来、私は仕事場と家を行き来するだけの空虚な毎日を送っていた。「来未ちゃん、海苔弁なのに肝心の海苔を乗せ忘れちゃうなんてダメでしょうが!」「あ、ご、ごめんなさい!」注意力も集中力も散漫になっていて、同じパート従業員のおばちゃんによく怒られるようになった。「来未ちゃん、まーだ振られた彼氏の事気にしてんの?」「う…!そうズバッと傷を抉らないでください、佐藤さん」「あんたまだ若いし其れな...

偏食の王子様 4話

「──え…こ、此処?」別店舗の異動を命じられた私は、数日後指定された場所に来ていた。来て──いたのだけれど…「此処は…何店?」私の目の前に広がっているのは大きなお屋敷だった。どう見てもチェーン店のお弁当屋さんという店舗じゃない。どちらかといえば教科書で見た事のある鹿鳴館みたいな西洋のお屋敷だった。「あれ…?もしかして住所、間違えちゃったかなぁ」戸惑いつつ、大きな門の前でウロウロしていると、いきなりギィィィ...

偏食の王子様 5話

テーブルに置かれた書類にはギッシリと細かく雇用条件が書かれていた。其の細かすぎる雇用条件などの文言は今、この場でハッキリと読み解く事は出来なかったけれど、大まかな事は頭に入った。つまり──此処は私が勤めているチェーン店のお弁当屋の大元である大手食品メーカーの創始者一族が住まう、矢羽々(やはば)家だという事。私はこの屋敷の厨房で、矢羽々 樹生(やはば たつき)なる人物専用の食事を作る料理人として雇われた...

偏食の王子様 6話

突然降って湧いた話に私は戸惑いを隠せなかった。「状況は解っていただけましたか?」美形の其の人は特に表情を変えずに、淡々とした口調で問うた。「あの…ひとつ質問があるのですが」「なんでしょう」「何故私、なんでしょう?私の作る料理は…あの、はっきりいって此方にいらっしゃるだろう一流の料理人とは比べ物にならない程…大した事のない料理です」「…」「若と呼ばれる位のお坊ちゃんならきっと舌の肥えたグルメなお子さんで...

偏食の王子様 7話

「だからおまえを雇うんだ」「…」この状況に及ぶまでの事の次第を話し終えた御門さんは最後にそう云い締め括った。「──以上、あなたを此方で雇用する事情を全て話しました」「!」(口調が元の紳士風情に戻っている!)どうやらこの御門さんという人は、仕事の時とプライベートの時とでは口調が変わるみたいだ。(おかしな人)あまりにも其の変わりようが激しいので、私はちょっと御門さんの事が怖いなと思ったのだった。「あなた...

偏食の王子様 8話

矢羽々家に引っ越して来た翌日──トントン「…」トントントントン「……ん」薄暗い部屋に響き渡るノック音で目が覚めた。トントントントントントン「! は、はいっ」私は慌てて飛び起き、部屋のドアを開けた。「おはようございます」「お、おお、おはよう、ございます」其処にはキッチリとスーツを着こなしている御門さんが無表情で立っていた。「案の定まだ寝ていましたね。就業時間10分前ですよ──遅刻厳禁」「あ、は、はい!直ぐに...

偏食の王子様 9話

豪華絢爛な煌びやかな部屋の中央にドンと置かれている長いテーブル。其の上座にひとり、ポツンと座っている少年がいた。「あっ」其の少年と目が合った瞬間、少年は高い声を発して私の元に駆け寄って来た。「あ、あの…あの、僕…僕の事、覚えていますか?」「はい。この度は私を雇ってくださってありがとうございます」「…怒って…いない?」「え」「ぼ、僕の我儘で…お姉さんを無理矢理こんな処に来させちゃって…其の…怒っているかな...

偏食の王子様 10話

平日は若のために作る昼食がないのでかなり自由時間があった。(そうだ、目覚まし時計買って来ようかな)朝の出来事を思い出し、私は軽く昼食を済ませてから出掛ける準備をした。裏口から出て中庭を回って玄関に出ると、御門さんが歩いて来た。「あ、御門さん」「──お出かけですか」「はい、ちょっと買い物に」「若の食事に関する食材は全て用意されていると思いますが」「あ、食事関係の物ではなく私の個人的な買い物です」「…」...

偏食の王子様 11話

私の決意はとても堅かった──仕事に生きると決めてからは其の唯一の職務である若の健康を考えた食事作りには異常な程に熱が入った。私が試行錯誤する苦労の末の出来は、若が完食してくれる度に私に自信と遣り甲斐に繋がった。食事での健康管理が始まると共に若は運動にも精を出す様になって、其の相乗効果は目を見張る程になって行った。私が矢羽々家に勤め始めてから四年も経つと、其の積み重ねられた集大成は大きなものになってい...

偏食の王子様 12話

よくよく考えれば御門さんとの付き合いも四年になる。最初こそ其の美形ぶりに戸惑い、振り回された事もあったけれど、仕事仲間として付き合って行く内にそういうのにはすっかり慣れてしまっていた。「…井上、おまえ最近どう?」「は?なんですか突然──どうって何が」「なーんかさぁ…歳取ったって思わないか?」「はぁ?」「体力面で特に最近そう思う様になってさ」「あぁ、また若に負かされたんですか」「…」御門さんは若の体術の...